2013年6月12日水曜日

考えてたことぜんぶ忘れた


「山頂まで行きたくねぇかーーー」


男はそう言い、にやついてみせた。



何を言うのか…

山頂だと…




行けるのか。
二本の足で行けるのか。
本当に、行けるのか。
そんなことが出来るのか。




「連れてってやるよーーー」


口角を緩めたまま、男は呟く。
目を離さず。明朗な口調で。
確かに男はそう言い放った。




信じられなかった。
嘯いてるのではないか。
本当なのか。
本当だとして、直ぐに行けるのか。


ぞくり、ぞくり。
背筋を何かが駆け抜ける。


ぞくり、ぞくり。
心音が跳ね上がる。


ぞくり、ぞくり。
喉が異様に渇く。


頬は紅潮し、手は汗ばんでいた。



この感覚はーーー




行きたかった。
今すぐに行きたかった。
走り出したかった。
走って登ってやりたかった。
脚が疼いていた。
手足は心臓と同期していた。


くらくらと、動悸がする。
乱された心拍が訴える。


たまらず。
たまらず口を開いていた。


俺をーーー
俺を連れて行ってくれないかーーー




「それ、待ってたぜーーー」


山の麓に立った男は、待ちくたびれていたかの様に足を繰り出す。




斜。
斜。
斜。
斜。
斜。




なんというーー
なんという斜面なのか。
これがトレッキングなのか。


心臓が縮こまる。
身体が強張る。
身の毛がよだつ。



斜。
斜。
斜。



男の背が遠ざかる。
どんどん、どんどん。


彼方へと消えて行く。
どんどん、どんどん。


霧で姿が見えなくなる。
どんどん、どんどん。




何故だーーー
何故俺はこんなことをーー




苦しかった。
叫び出しそうだった。
頭の中では叫んでいた。


息を吐いて、
息を吸って、
息を吐いて、
息を吸って、


頭がくらくらしてきた。


左足を前に、
右足を前に、
左足を前に、
右足を前に、


繰り出す、繰り出す、繰り出す、
それから、それから…


身体がよろける。
足は遊び始めていた。


負けたくない。
負けられない。
もっと先へ。
ずっと遠くへ。
天辺に行くんだ。
天辺に。
天辺まで。


だが、酸素がーー
酸素が欲しいーーー





「まだ歩くのか?それともーー」


男は不意に現れた。
息一つ切らしてやいない。
ただ、心配そうな目をしている。


歩き続けるか…
休むか、だと…


俺の様子を見てその判断をーー
その判断を下したのかーーー


『休憩』
それは誰しもの憧れであった。
そして、俺はそうするべきであったのだ。もっと、もっとずっと前からそうするべきであった。


俺は、人として休憩すべきであったのだ。それは同時に、俺を俺たらしめる行為でもあったのだ。


全く。
全く、たまらぬ男であった。





「もうすぐ頂だぜーーー」


歩みを再開し、男は告げた。


もうすぐなのか。
本当に着くのか。
霧が視界を奪っているではないか。
それでもお前は着くと言うのか。
その両の目には映っているのか。
その眼に曇りなど無いのか。
そうなのか。
そうだと言うのか。


なぁ、ラムーーー






肩で息をしながら岩場を越える。
と、同時に脳汁が溢れた。

圧巻。
絶景。
標高4300m。
神々の峰は連なり、
先人の声が木霊する。




「な、歩けただろーーー」


男は頂で笑っている。



あったのか。
こんな場所があったのか。
人が来られる場所だったのか。
両の足で来られる場所だったのか。
ともすれば、俺は今まで。
今まで何を躊躇していたのか。


…まあいい。



俺はやり遂げたーーー
ついにやり遂げたんだーーー



応!
右の拳を天に掲げる。
応!
左の拳を天に掲げる。


そうして、岩場に横たわる。


打ちのめされたんだ。
ヒマラヤに打ちのめされたんだ。
奴は俺を打ちのめしたんだ。
簡単だ。
簡単な事だったじゃないか。
ここに来れば良かったんだよ。
ここを目指せば良かったんだ。
奴は俺を打ちのめしたじゃないか。
一瞬で、脳天を、悉く。
簡単なことだったんだ。
こんなにも単純で、簡単な。



ここに来れて良かったーーー



それというのも、
お前のお陰なんだよ、ラム。
ああ、なんという男なのか。
いつ何時もそうであった。


心が挫けそうな時も、
肩で息をしている時も、
意気消沈している時も、


この男がいてくれたから、
俺はここまで来れたのだ。
お前のような男がまだいたのか。
まだいてくれたのか。
なんという男なのか。
全くどうして、頼れる男なのか。


込み上げてくる。
負けじと瞼を閉じる。
たまらぬ。
たまらぬ。
込み上げてくる。
たまらぬ。
嗚咽を上げる。





「チップは、はずめよーーー」

たまらぬ男であった。